『Tulpish(タルパ語)』について
タルパ語!?なんじゃそりゃ!?
簡単に言えばテレパシーみたいなもの。
ふつう会話する時は
知覚―(情報が入る)→話し手―(変換)→言語→聞き手
と言語化する過程が入るけどタルパ語の場合だと
知覚―(情報が入る)→話し手―(認知した知覚をコピー)→聞き手
と言語化の過程を含まない。
りんごに例えると
🍎―(情報が入る)→話し手―(変換)→「りんご」→聞き手
と言語化して行う一般的なコミュニケーションでは聞き手が「りんご」という言葉で情報を受けとるため聞き手がイメージする際は完全に聞き手側のりんご像になるが、
タルパ語でこれを伝える場合
🍎―(情報が入る)→話し手―(認知した知覚をコピー)→🍎→聞き手
と話し手が見たりんごそのもののイメージが聞き手に伝わる。
知覚に関わらず、「脳内イメージ」と言うのが適当なのかもしれない。
これを「話し手」「聞き手」と表現するのに違和感を感じる程「話」をせずにコミュニケーションを行う。
いわばタルパ語は完全なる非言語的コミュニケーションだ。
エレン
「raw thought(生の思考)」って例えられることがあるけどホントその通り!この上なく分かりやすい例え!って思う!
言語的コミュニケーションとタルパ語、どちらが先か
人によっては「タルパ語を言語化していく過程が訓練だ」と言う人もいるが、私はタルパ語を言語化する必要は無いと思う。
タルパ語にはタルパ語にしか無い良さがあり、それを言語化するのは情報の削減となり伝わる量が減ることで食い違いが生じる可能性も高くなる。
タルパー自身が言語能力を高めたいのならその方法は適切だが、タルパ語を言語化して高まる能力は言語能力のみであり、オート化が進むとは考えられない。
むしろ思考を言語化する事にとらわれてスムーズなオート化が障害されるのてはないかとも考えている。
だから私はタルパの訓練の過程でタルパ語を言語化する必要は無いと考えている。
訓練が進むにつれてタルパー側がタルパ語を認識できるようになる、つまりタルパ語でコミュニケーションができるようになることはオート化への前進の証拠だと考えている。
私がオート化の訓練(オート化や訓練という言葉を知る前にやっていたので正確には訓練と呼べるのかどうかは分からない)をやっていた時、はじめはなりきりチャットのような感じで言語的コミュニケーションのみを行っていた。
それがタルパと一緒に過ごしていく過程で非言語的コミュニケーションを多く使うようになり、「タルパとコミュニケーションするにあたって言語は不要ではないか?」という考えさえもよぎった。
タルパと思考が丸々通じ合い、更には魂で繋がり合うような独特な感覚……
それが『Tulpish(タルパ語)』。
「タルパ語」と呼ばれる程であるから、それはタルパ(など思念体)の特権だと思っている。
人間相手のテレパシーとは難易度が違う。タルパ語の方がずっと簡単だ。
そして人間同士のテレパシー含め人間同士の非言語的コミュニケーションでは間接的な動作(ジェスチャーなど)を行ったり表情や声のトーンから感情を読み取るという"間接的"なものが入るが、タルパ語は"直接"イメージを伝えるという違いがある。
経験した事の無い人には想像するのは難しい事なのかもしれない。
タルパ語に向き不向きはある?
人が五感で情報を受け取る点、タルパ語に含まれる情報量の多さなどを考えると「タルパ語が不向きな人」というのは思い付かない。
しかし逆説的であるが「タルパ語が向いている人」というのは存在する。
自分の考えですら言語化するのが困難な人だ。
言ってしまえば、タル活に言語は必須ではない。
大切なのはタルパと通じ合うことだ。
タルパと通じ合って、繋がりを感じ、そこでタルパが"かけがえのない存在"となる。
言語でのコミュニケーションが困難なら、認知した知覚をそのままタルパに送る方法でのコミュニケーションに切り替えるのも手だ。
私が言語的コミュニケーションが苦手なのは知能検査でも明らかで、小学生の時にやったWISCでは言語理解が平均を切っていた。
WISCを知らない人や詳しくない人向けに砕いて言うと、私は「何か思い付くことはあるのだけれどそれを表す言葉が出てこない」という現象がよく起こる程の言語能力だ。
そのような人にタルパ語は向いている。
「なんとなく」の読み取り
そういえばタルパの訓練の話の中に能面の話が出てくるものがある。
能面のみならず他のお面や人形に関しても言えるものなのだが、物理的に表情が変わるはずの無い顔から表情が読み取れるという不思議な現象がある。
「なんとなく嬉しそう」「なんとなく悲しそう」
そうした「なんとなく」からタルパの意図を読み取る。
それもある種のタルパ語ではないかと思う。
タルパ語には大きく分けて
①脳内イメージのコピー
②「なんとなく」の読み取り
の二種類があるのではないかと思う。
①は先程りんごの例を挙げた通り、習得すれば言語的コミュニケーションよりも手軽で簡単な手段だ。
②になると難易度が上がる。
ある程度の経験が必要だ。
「なんとなく」といったものは抽象的なものであり、抽象的なものは数々の具体物の簡略化により成り立つ。
例えば「タルパがなんとなく嬉しそう」と認識するためには、数々の"タルパが嬉しがる経験"をしてその中から「タルパの嬉しさ」という概念を生成する必要がある。そしてその生成された「タルパの嬉しさ」を微小に感じることができて初めて「タルパがなんとなく嬉しそう」と認識できる。
だからタルパからなんとなくの感情を読み取るためには数々の経験を要する。
その訓練法が書いてあるコンテンツには五感化よりも先にそれが行えるような内容が書かれていたが、五感化が全くできない状況でそれは難しいように思える。
(これには私がアスペルガーで人間から感情を読み取るのが困難な点、霊感が皆無な点が関連しているのかもしれないが……)
それから先述した能面の表情を読み取れる現象は主観であると説明されているが、タルパの最終的な目標は自分から独立した個人を作り出すことなので保持者の主観が反映させるというものは方向性が違うのではないかと思う。
やはり経験を積んでから抽象化された「なんとなく」を読み取る方法がタルパを(保持者の派生ではなく)独立した個人として認識するための適切な順序ではないかと考えている。
いつ導入すべき?
脳内イメージのコピーにしろなんとなくの読み取りにしろ、これは初心者がいきなり始める訓練としては向いていない。
どの過程でそれを導入すべきかと言えば、
①脳内イメージのコピーに関しては「言語的コミュニケーションでタルパの性格は大体つかめた、しかし返答スピードが上がらない」という程度
②「なんとなく」の読み取りに関しては視覚化、オート化が進む過程で自然にコツをつかむもの(やろうとして意識的に訓練するようなものではない)
私の考えではこう。
②に関しては慣れからなるものなので上手く手法を説明できないけど、①に関しては言語的コミュニケーションで話せるんだけどスムーズにはできない……という人にはおすすめなので試してほしい手段です。